院長のコラム

開院50周年

ちょっと忙しくしてる間に、もうお盆休みも終わりですね。このコラムもさぼり過ぎでしたが、まずは近況報告から。

昨年末のコラムにもちょっと書きましたが、昨年までは日帰り白内障手術の手術日は週一回、木曜のみでした。昨年夏頃には手術申し込みから実際の手術までの待機期間が6か月近くなり、これではあんまりということで昨年10月から月曜日午後も外来を休診にして手術日としました。約1.5倍の手術数となり、ようやく待機期間も2か月ちょっとまで短縮できました。ただ、外来が半日減って、外来での診察待ち時間が長くなってしまうことが時々あり、患者さんにはご迷惑をおかけしております。なんとか効率よく、かつ内容を充実させた外来診療にするべく努力しますので、ご容赦いただけますようにお願いします。

当院は私の父が昭和37年に開業してから、今年で50周年を迎えます。開業当初は当院の周辺もかなり田舎で、現在目の前にあるスーパー「アバンセ」の建ってるところには大きな蓮池がありました。田んぼも多くて、国道2号線まであまり建物もなくて、幼稚園の頃はザリガニやカエルを捕まえて遊んでた記憶があります。まだ当時は下水も通ってなく、汲取式の便所でした。当時の写真(左)と現在(右)を比べると、半世紀の時間の流れとこの間の日本の高度成長が実感されます。

 

ちょうど7月3日が、50年前の開院の記念日だったとのことで、過去にお世話になった従業員さん達などをお呼びしての小宴も企画しておりましたが、残念なことに、その記念日を目の前にして、創業者・先代院長でもある私の父、中野淳巳がこの6月27日に永眠致しました。大正生まれの高齢でしたので、心臓など少々ガタは来てましたが、このGW前に脳幹梗塞で倒れて入院し、最後は肺炎を併発して静かに息を引き取りました。通夜、葬儀では多くの方々にお見送りいただき、本当にありがとうございました。

父は満州生まれで、戦後引き揚げてきてから貧しい中で京大医学部を卒業し、郷里の広島に帰ってから眼科医となり、昭和の高度成長期の中で開業し、長い間地域の眼科医療に貢献してきました。戦前から現在までの激動の時代を生き、その中で、私と兄を曲がりなりにも眼科医として一本立ちさせるまで、我々に背中を見せながら仕事を全うしてきたわけですから、きっと満足した人生を振り返りながら逝ってくれたのではないかと思います。ただ、50周年記念日を共に祝えなかったことが、ちょっと残念ではありました。

 

次の50年に向けて、当院がどう社会に貢献していくべきかを、最近考えています。これからの50年、ますます日本は少子高齢化が進んできます。一昔前までは、55歳定年でしたが、いまや60歳、65歳まで現役で働かれる方も多くおられます。70歳、80歳になっても自立して暮らすために運転免許を更新したいという方も増えてきています。高齢者の労働力を維持するためには視力の保持が必要不可欠です。白内障、緑内障、黄斑変性症その他、年齢とともに起こってきやすい眼の病気の治療が非常に重要になってきます。

 

また、高齢者が脳梗塞などでいよいよベッド上での生活となった時にも、今回の私の父の場合も構語障害で言葉でのコミュニケーションは難しくなりましたが、父も白内障の手術はすでに済んでいたので、視力は最後までそこそこ保たれていたと思われ、顔を見て認識したり、アイコンタクトをとることも出来ました。また、亡くなる直前まではベッド上で、好きな野球や相撲のTV中継を見て楽しむことも出来ているようでした。体が不自由になってからの高齢者のQOL(生活の質)向上のためにも、ある程度元気なうちに、白内障を代表とする治療可能な病気の手術などは出来るだけ済ませておく、という配慮も重要だと思います。こういう面で、我々眼科医が社会貢献できる場面も、今後ますます増えていくと考えられます。

 

医療技術が発達して、例えば近視を治す屈折矯正手術とか、白内障手術でも老眼の解決まで狙った多焦点眼内レンズ手術など、健康保険が使えない贅沢な医療で富裕層の要求に応えるのも一つの方向性で、医学の進歩という面からは医療者にとっても魅力的な治療です。しかしながら、今後ますます高齢者が増えて、医療資源が財政的にも人員的にもタイトになっていく中で、高齢者の労働生産性とか、寝たきりになった時のQOLなどを優先的に考えていかなければならないのでは、と思います。贅沢な欲求を満たすための医療や、逆にQOLなどお構いなしに延命だけを主眼とした医療の是非について、また、最近何かと話題に上がる生活保護などの社会保障も含めて、限られた資源をどう活用していくかを、もっと社会全体で議論していくべきでしょうね。

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